
自分たちも被災者。ありがたい、力になる――。東日本大震災発生から10年。BadPaL が2011年3月アジアからスタートさせた被災者支援活動「PRAY&PLAY for JAPAN」、この2人に協力してもらった
当時14歳、中学2年生の東野有紗。当時13歳、中学1年生の渡辺勇大。今では、世界のバドミントン界において誰もが知るトップ選手に成長した2人は、10年前のきょう3月11日、特に被害の大きかった3県のひとつ、福島県にいて実際に震災を経験した被災者だ
渡辺は、当時はまだ幼く、原発のことはよくわからなかったが、体育館の外に出た直後、館内の照明器具が天井から次々落下し、天候は急変。避難していた運動場から寮へ戻る道中、地割れや道路の隆起を目の当たりにして、今まで普通だったのが普通でなくなり、やばいな、死ぬかも、と
東野は、恐怖と同時に、テレビで見る景色のようで実際に起こっていることなのか(うまく受け入れられなかった)と、とまどいもあった当時の様子を振り返った
2人がいた福島県富岡町は、第1原子力発電所から10キロ圏内に位置していたため、地震発生の翌12日早朝、避難指示が発令された。それから約2カ月、5月に代替の受け入れ先となる同県猪苗代町に戻るまで、練習はおろかすべての活動環境が失われた
コロナウイルスの感染拡大で昨年3月以降、自宅にこもり練習できない日々が続いたが、震災当時とかぶる部分はあるか尋ねてみた。すると東野は、「何もなかった当時とは比べものにならない、コロナ自粛期間の不自由さはあの時に比べればまったく問題じゃない」とさらりと返した
毎年迎える3月11日に特別な思いは。渡辺いわく「(この日に限らず)日々忘れることは決してない。ただ節目として、記憶を薄れさせないように」
復興はまだ十分進んでいない、富岡への人の戻りは1割ぐらいとも(聞く)。風化させてはだめ、伝え続けていかないと。個人としてできることは多くないが、競技で結果を残して勇気や元気を与えられれば。「バドミントンで伝える」ことはできると信じている、と

10年前、国籍や契約するスポンサーの枠を越えて、アジアのトップ選手たちが日本にエールを送ってくれていたことに触れ、「自分たちも被災者なので、本当にありがたい。力になる」(東野)と率直に感謝を示す
今後、もしアジアのほかの国・地域で同様な災害が発生した際は、「立場が変わればもちろん、今度は自分たちが支援に協力したい。人類みな仲間。助け合って」(渡辺)と笑顔を見せた
実は2人は、避難を余儀なくされた10年前からこれまで、一度も富岡町には戻っていない。現地に残した荷物を取りに行ってくれたりしたのは、それぞれのご両親。避難解除前だったが、指定された日の時間限定で複数回、子どもたちのため現地入りしていた
なお、震災発生当日から数日間の渡辺の動き(時系列)を父親に確認すると、3月11日は寮で暗い中、一晩過ごし、翌12日になって隣村に避難。13日の夜中、東野の同級生で同じく選手の大堀彩さんの母親が運転する車で栃木へ移動し、そこで父親と合流。栃木にある祖母宅で1泊した後、東京の実家に戻ってきたという
震災後に受け入れてもらい卒業まで過ごした「猪苗代中学校」だけでなく、震災前に在籍した「富岡第一中学校」からも卒業証書を受けている東野と渡辺、揃って、「落ち着いたらぜひ富岡町を訪問したい」と語った
Ten years have passed since the Great East Japan Earthquake occurred on 11 Mar 2011. BadPaL has been sending a message of ‘PRAY&PLAY for JAPAN‘ not to forget people who are still suffering from damages, and to support them
未曾有の被害をもたらした東日本大震災が発生した2011年3月11日からきょうで10年。BadPaL は、今も苦しんでいる人たちがいることを忘れず、支援の気持ちを伝えるために、「PRAY&PLAY for JAPAN」のメッセージを発信する